| メッセージ(大谷孝志師) |
| 明日のことは心配しない |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年2月12日 マタイ 6:25-30 「明日のことは心配しない」 牧師 大谷 孝志 |
主イエスの弟子達も着る物や飲食物で心配の種が尽きなかったようです。 その彼らに主は「心配するのはやめなさい」と言います。人はどんな時に心配するのでしょう。必要だと思うものが無い時です。命を守るには食べ物、飲み物が必要で、無ければ死ぬと思うからです。寒さから身を守るには着る物が必要で、無ければ寒さで病気になるか、体温を奪われて凍え死ぬかになるので、無ければ死ぬと思うからです。それなのに、主は何故心配したりするのはやめなさいと言うのでしょう。主は、必要な物が今は無くても、あなたがたの天の父が与えるから大丈夫と知っているからです。 主は「空の鳥を見なさい。野の花がどうして育つのか、良く考えなさい」と言います。人は食べ物である穀物を得る為に、種蒔きをし、刈り入れをし、倉に納めます。しかし空の鳥はそれらをしなくても生きています。天の父の神が養っていて下さるからです。主は「あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか」と言います。主は鳥の命はどうでも良いと言うのではありません。主は。人は神にょって特別な存在、神が共に生きる者として造られていて、この世で生きる年月は、その人その人に既に神が定めているので、心配しても始まらないと彼らに教えているのです。 主は野の花を見てご覧なさい、「野の花は、…働きもせず、紡ぎもしなくても、栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした」と言います。更に、「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の花でさえ、神はこのように装って下さるのなら、あなたがたには、もっと良くして下さらないでしょうか」と言います。この話も先週と同じ、主に従って来ている弟子達と大勢の群衆に語った山上の説教と呼ばれる話の一部です。主は彼らに「信仰の薄い人たちよ」と言います。聖書にはこの「信仰の薄い」の他に「まだ信仰が無い」「不信仰」と信仰についての三つ主の言葉があります。全て弟子達に向けた言葉です。弟子達は全てを捨てて主に従っています。信仰については、私達以上だと思います。しかし主は、彼らを非難しているのではありません。ご自分に従って来る者達に真の信仰者となって欲しいのです。ですからこれは、彼らに自分達の信仰を吟味しなさいとの思いを込めた言葉なのです。弟子達は私達から見れば、羨ましい限りです。御側にいて、近くで主の言葉を聞き、奇跡を目撃しているからです。私達はどうでしょうか。聖日、祈祷会で主の言葉を聞き、兄姉との交わりの中で、互いに相手の話の中にある主の御業に触れるだけです。とは言え、肉の体をもって生きていた主と、復活して霊の体で共にいる主とは同じ主なのです。彼らは主を見て信じ、私達は見ないで信じてる点で、確かに違いはあります。しかし主は言われます。「見ないで信じる人たちは幸いです」と。それは私達の方がより真剣に主を見詰めようとするからです。 さて主は、信仰が薄いと言った弟子達と群衆に「ですから、何を食べようか。何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです」と言います。彼らは確かに信仰が薄い人達です。しかし神は、その彼らにとっても「天の父」なのです。信仰が薄かろうが、まだ無かろうが、不信仰に陥っていようが、神が自分達の父なのだと心に刻み直し、こんな自分でも大丈夫なのだから、安心していれば良いと、主は教えているのです。 私達人間は、自分達の基準で神を考えてしまうから、自分にはしてくれないだろうと思い、心配になるのです。ですから主は、空の鳥、野の花を例に挙げて、神は無償に、無制限に必要な物を与える方と教えたのです。神は絶対者です。神にはどんなことでも出来るのです。その事を先ず信じることです。しかし、神は無償、無制限で人に与えますが、無条件ではなく、条件があり、その条件は「神の国と神の義を求める」ことですと主は教えます。神の国を求めるはどういうことでしょう。神の国を下さいでも、この世を神が支配する世界にして下さいでもありません。主イエスが共にいるので、既に、神の国は私達のただ中にあります。私達は神の国に生きているのです。それを実感する自分にして下さいとの祈りなのです。神の義を求めるのも、神よ正しくあって下さいと祈るのではありません。神は私達の祈りによって変わる方ではないからです。神は永遠に絶対者であり、義なる方なのです。神の義を求めるとは、自分が御前に正しい者として生きる知恵と力、賜物を与えて下さいとの祈りなのです。神よ、私をあなたに受け入れられる者にして下さいとの祈りと言えます。しかし私達は、主イエスを信じて救われています。主イエス・キリストの十字架の血の贖いによって、神に受け入れられています。神の恵みと平安を戴いています。神に受け入れられ、神の国に生きていても、それを事ある毎に求めることが必要だと主は教えるのです。この世に生きる私達はどうしてもこの世の知恵や力に惑わされて、直面する出来事、状況に不安になり、心配してしまいます。神は私達の天の父として、必要なものを与えているのです。ですからこうして世に生きているのです。ですから神の国と神の義を求めことが必要なのです。それによって必要なものが与えられていると実感でき、神の国に生き、御前に正しいものとされているとと知る時、私達は全て自分に必要なものとして神が与えたものと実感し、心から感謝して戴けます。 主は私達にも「明日のことまで心配しなくてよい」と言います。主が私達に日々恵みと平安を与えているからです。「明日のことは明日が心配します」は、「明日は明日の風が吹く」と言い換えられます。明日の事は私達の思いを遙かに超えた御心によるからです。日々自分が置かれた状況の中で、自分の責任において苦労しながら為すべき事をしている、それが私達の現実です。その苦労だけであなたがたには十分です。これから先も父なる神が必要なものを備え、与るので安心しなさい、と主は私達に教えています。 |