メッセージ(大谷孝志師)
心を引き締め身を慎む
向島キリスト教会 礼拝説教 2025年2月16日
Iペテロ 1:13-21 「心を引き締め身を慎む」 大谷孝志

   ペテロは、使徒達の筆頭で、ペンテコステ後に誕生したエルサレム教会でも中心的存在として、パウロを初めとする使徒達の働きによって地中海沿岸に誕生した諸教会にとって指導的立場にありました。ですから、彼の言葉はこれを読む人々は、非常に重みのある教えとして受け取ったと思います。だからこそこの手紙が聖書の中に入れられているのです。彼は諸教会の人々から、信仰者としてこのような問題にどう対処すれば良いのかと相談を受け、答えていたと想像できます。当時の諸教会の人々も私達と同じように、この世の主イエスを信じていない人々の中で生活していたからです。ペテロは読者達に、「無知であった時の欲望に従わず」と言います。「無知」と言っても、彼らはこの世において、社会人として十分な知識を持って生活していたと思います。しかしパウロが言うように、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全き事であるかを知らなかったのです。そして主イエスを信じて救われ、主イエスの父なる神が真の唯一の神と知り、生活が一新し、神の民として正に生まれ変わったのです。私達も主イエスを信じる前と信じた後では、大きく変わっているのではないでしょうか。しかし、価値観、世界観は変わったとしても、ペテロが無知であった頃の欲望に引きずられて、従ってしまなわないようにと注意しているように、信じる前の方が、自由でのびのびしていたと思ったことは無いでしょうか。確かに信じる以前には、相手の自分への思いや言葉に傷付いたり、落ち込んだり、思い掛けない出来事に絶望し掛かったとしても、今よりもっと楽しかったとの思いに引きずられ、主を信じたのに何故こんな気持ちになるのかと呟いたことはないでしょうか。そうならないに「従順な子となり、召し出してくださった聖なる方に倣う」者になりなさい、初心に返ることが大切とですペテロ教えます。私達は時とすると、今の自分の事しか考えられなくなり、今の自分の事が全てになってしまうからです。

 私達は主イエスを信じてこの世の悪から救い出されたのです。以前は先の分からない不安から、自分や相手のことが信じられず、辛い思いを何度もしたでしょう。でも今は、主イエスを信じて、これには意味がある、今の自分には分からなくても、生きて共にいる主が全てを知っていて、主が最も善い事をされているのだから、今自分にできると思う事とをすれば良いのだ、と思える自分に変えられているのです。
 ですから彼が言うように「あなたがたを召された聖なる方に倣い」ましょう。その方とは私達の父なる神です。神は私達をそれぞれのわざに従って公平に裁かれる方です。私達も、自分では正しい判断をしているつもりでも、相手の心の内も分からないし、先の事も分からないのです。ですから正しい思っていても、後で、残念ながら間違っていたと分かることがよくあります。相手を傷付けてしまった時もあります。しかし神は違います。私の心の内も相手の心の内も、この先に何があるかもご存じなのです。神は永遠の方なのです。時を超える方だからです。ですから私達は、神は全てを公平に裁かれると信じましょう。今起きている事の全てが御心だと信じられると、それを良い事と判断して、素直に行える自分になれるからです。

 そして彼は「あなたが自身、生活のすべてにおいて聖なる者となりなさい」と言います。なぜそう言うのかというと、主イエスを信じる者は、「聖なる者でなければならない」からです。でも、彼は理想論を述べているのではありません、彼れらにできると知るからそう言うのです。何故出来るのかというと主イエスを信じ救われた者は「この世に寄留している」からです。先日も私が「寄留した」話をしました。入試という目的の為に親戚の家に住んでいることにしたのです。しかし彼がここで寄留というのは、パウロが言うように、私達の国籍は天にあるのですが、この世に生きる人達の救いの為に、この世に仮住まいしているという意味です。罪に満ちたこの世に住んでいえも、神の子だから心を引き締め、身を慎められ、聖なる者になれるからなのです。では何故、今の時を恐れつつ過ごしなさいと言うのでしょう。

 それは21節に有るように、私達のその信仰と希望は神に掛かっているからです。神がキリストが現れる時に与えられる恵みを、ひたすら待ち望むのですが、神はご自分が聖なる方であるので、与える私達にもそれに相応しい聖なる者であることを求めるのです。しかし、彼らはこの世に寄留していても。私達もそうですが、キリストの尊い血によって贖い出される前は、先祖伝来の空しい生き方に、親が、皆がそうするからと様々な宗教にどっぷり浸かっていたのです。日本のキリスト者人口は1%前後のままで、マスコミは神社仏閣のご利益を宣伝し、初詣や祭儀の光景を日本人なら当然すべき事のように放送しています。それらの偶像礼拝社会の中で生活し、挫折したり、裏切られたり、苦しんだり悲しんだりしていても、その「生活の中で、何の違和感も感じないばかりか、生活の安定の為に、お金さえあれば良いと思い、執着し、人の事より自分の事で精一杯になって、一番大切な神様、イエス様、聖霊様のことを、生活の脇の方に置いたままにしてはいなかったでしょうか。

 ですからこそペテロは1:3で「神は、ご自分の大きなあわれみにのゆえに、イエス。キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。また、朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために天に蓄えられています」と、その御心を彼らに、私達に言うのです。主を信じて救われた私達は、神の大きなあわれみによって、新しく生まれた自分として世に生きているのです。私達の為に主イエス・キリストが十字架に掛かって死んで下さったのです。御霊は、この信仰に立ってこの世に生きなさいと、この手紙を通して私達に命じています。パウロが第二テモテ3:16で教えているように、聖書は全て霊感に拠って書かれています。ですから御霊は。私達が主の十字架の血によって贖われ、世の終わりに与える豊かな恵みの賜物が用意されているのに、福音を知らなかった時の自分に戻ってしまったら、それらが全く無になってしまうと警告するのです。その御霊の警告を心に刻みましょう。そうすると、私達は心を引き締め、身を慎まなければとの思いに立たされます。聖書はこのように素晴らしい神からの手紙なのです。ですからその御心を知る為には、祈りつつ聖書を読み、礼拝で御言葉の説き明しを受けることが大切です。そすることによって私達は心が燃え、主が共にいて守り導いているのを感じられます。すると、神に喜ばれ、受け入れられる者となってこの世に生きられます。でも、自分の生活を振り返ってみると、とてもそのような聖なる者として世に生きていた、と胸を張れない私達ではないでしょうか。

 ですからペテロは「従順な子どもになりなさい」と言うのです。主も「子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに入ることはできません。(マルコ10:15)」と言いました。言い方を変えると、「大人のプライドを捨てて子どもになりましょう」「古い大人の上着を脱いで子供服を着ましょう」です。あれこれをしなければと自分を制約するのを止めて、聖書に書かれている主イエスの言葉に素直に従いましょう。主に従順な子どもになりましょう。そうすると、主が敷いてくれたレールの上を進むことができます。そんな事で大丈夫かと心配する必要はありません。主は全てをご存じの上で、私達に一番相応しい道にレールを敷いてくれているからです。そうすると、今までと違った景色が見えてきます。自分の欲とか焦りとから解放され、今迄見えなかったものが見え、素直に目の前の事に集中できます。

 だからペテロは「キリストを死者の中からよみがえらせて栄光を与えられた神を、キリストによって信じる者」者なのだと、自分自身を見つめ直しなさいと言います。私達は、人知を遥かに超えたその神を信じているからです。何故でしょう。復活の主が私達と共にいるし、私達は聖霊の宮、主が内にいる者となっているからです。その信仰を心に刻み直し、心を引き締め、身を慎んで世に生き、主の再臨の時、天に引き上げられて主と会う恵みの時を楽しみに待ちましょう。私達の父なる神は、私達に約束したこの事を必ず実現するから大丈夫とペテロは教えます。感謝です。