| メッセージ(大谷孝志師) |
| 心を騒がせず主を信じる |
| 向島キリスト教会 礼拝説教 2025年2月23日 ヨハネ 14:1-14 「心を騒がせずに主を信じる」 大谷孝志 |
私達向島キリスト教会は年に一度、教会創設時に大きな働きをされた荒川深美先生の昇天日近くの2月第四聖日に召天者記念聖日礼拝を守り、この教会の交わりの中でみ許に召された方々、そしてその家族の方々を覚えて、主を礼拝しています。 主イエスは十字架に付けられて死んで復活した後、天に昇られました。それ迄自分達と一緒に生活してた主が死んで目に見えなくなりました。その前に、世に残される弟子達にした告別説教の一部が今日の説教の聖書個所です。弟子達は主イエスに「わたしに付いて来なさい」と言われ、主に従い、約二年半生活を共にしました。彼らは御側近くで教えを聴き、数々の奇跡を目の当たりにしてきたのです。彼らにとって主は「神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者」であり「この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みを掛けていました(ルカ24章)」。しかし、その主がこの世を去って父のみ許に行くので、居なくなり見えなくなってしまうのです。そして、彼らが探しても見つからないし、今は自分達は主の行く所に行くことができないと主が言うのです。主はご自分がどのような死に方で死ぬかをかを示したと12:33にあります。弟子達は主が死んでいなくなると改めて心に刻みました。 皆さんも身近な人の死を経験しています。ですからここに写真が飾られています。死という別離の時は寂しく辛く、悲しいものです。自分と深い関わりがある父や母、夫や妻、子どもの死の場合は、その別離の感覚は更に特別です。一緒に生活し、その姿を見聞きしていた人がいなくなるのです。私も、最初の妻の余命が三週間と宣告された時は、夜の町を二時間泣きながら、主に呟き祈りながら歩いた記憶があります。家族以上に大切な方である主に、ご自分が居なくなると言われた弟子達の動揺は激しいものがあったと思います。ですから主は、「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」と彼らに言ったのです。彼らはそう言われても今は分からなかったようです。教会に来て、主を信じ救われる前の若い頃の私も、死んだらこの世と無関係になり、しかも無の世界に無限に落ちて行くだけだと考えていました。喜びは勿論、哀しみも寂しさも怒りも苦しみも何も無い世界でただ落ち続けていくのです。空しさだけの思いしかありませんでした。 しかし、今は天の父なる神を信じ、主イエス・キリスト信じているので、死が終わりでも別離でもなくなっています。そして最近になって漸くですが、喜びの時になっています。今までは、死ぬことによって、世にいる人と会えなくなるし、喜怒哀楽を共にすることが出来なくなる。主と御国に生きることは嬉しいが、別離のまま、世の終わりの時が来るまで再会して語り合えなのは寂しいと思っていたのです。 でも最近になって、自分の命、自分の全ては主のものであり、その主と共にいること、そして先に召されたこの世で愛し、共に生きた家族や人々と再会し、共に語り合えるのだから、これ程素晴らしいことは無いのだと気付いたのです。この世の生を超えた永遠の命を実感出来たのです。これが救いと言えるものかもしれません。 皆さんは救いとは何かと考えたことはあるでしょうか。私は色々と考えました。人は苦しい状況から抜け出した時、救われたと言います。でもそれは一瞬の感情であって、長続きしないし、また元の状態に突き落とされることもあります。でも、Ⅰテサロニケ5:16-18の「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことにおいて感謝しなさい。これが、キリスト・イェスにあって神があなたがたに望んでおられることです」との御言葉が心に響きました。この世に生きていてこんな生活が出来たら素晴らしいと思いました。神はこんな生き方を全ての人に可能にする為に、御子を世に遣わし、主の十字架の死と復活によって、主イエスを信じる者が神の恵みと平安を戴く者と成れ、安心して神と自分と関わる人と共にいられると示されたのです。誰にでも必ず訪れる人の死、自分の死に付いて考えたこの礼拝の準備によって、救いについて、御言葉を通して大切なことを学ばされて感謝しました。 さて主は「わたしの父の家には住む所がたくさんあります。そうでなかったら、あなたがたのために場所を用意しに行く、と言ったでしょうか。わたしが場所を用意したら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしがいるところに、あなた方もいるようにするためです。」と言いました。この箇所は葬儀、告別式の時に良く用いられる聖句です。しかし今回、この箇所を説教準備の為に読み直した時、「また来て」を世の終わりの時のことと今迄は考えていましたが、今既にこの事が起きているのだと示されました。わたしの父の家は、主が「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」と言われた神の国だと。その時はまだ主がエルサレムに入る前でした。ですから、主に受難告知をされてもその事の意味が何一つ理解できなかったとルカ18:34にあります。しかし、神の御子である主イエスが世に来たことによって、既に新しい時が始まっているのです。弟子達には理解できなくても、主と共にいる所、そこが既に神の国なのです。その事が、主イェスの十字架の死と復活、聖霊降臨の出来事によって、使徒達に明らかになりました。そして、神の国の福音宣教が彼らによってなされ、多くの人々が主イエスを信じて救われて神の民となり、今に至っています。ですから「今は恵みの時、今は救いの日」なのです。 主は「わたしが行くところに、あなたは今付いて来ることができません」とペテロに言いましたが、「わたしがどこに行くのか、その道をあなたがたは知っています」と弟子達に言います。何故でしょうか。それは主イェスが「道であり、真理であり、いのち」だからです。主が「わたしを通して」と言うように、誰でも主イエスを信じ、従うなら、父のみ許、神の国に入れるのです。弟子達は今主と一緒にいます。そして彼らは、聖霊に満たされ、自分達が神が全てを支配している神の国にいると実感しました。そして「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます」と人々に、どうすれば神の国には入れるかを知らせました。神の国は主と共にいる彼らのただ中にあるからです。これが全ての人に与えられている福音、良い知らせです。私達は今、この教会の交わりの中で主を信じ救われた方々を覚えて召天者記念礼拝を守っています。その人々は既に神のみ許、永遠の神の国にいます。そして、ここにいる私達も神の国にいます。ここも神の国だからです。 しかし弟子達は信じられませんでした。主イエスは見えても、父なる神は見えないからです。私達も同じような思いになることがあります。主が共にいる、ここも神の国と言われても、主も父なる神も見えないからです。主は父が私の内にいると私が言うのを信じられないなら、わざのゆえに信じなさいと彼らに言いました。聖書を読んでも、説教を聴いても、祈っても分からない時は、自分の内に行われた主の御業を思い返して見れば良いのです。主が生きて働いている方とのしるしが私達の人生に刻み込まれているからです。主の恵みを数えてみるなら、自分が神の国にいること、私達の人生の歩みの中にその主のしるしがあると信じられます。私達は聖書に書かれている事、自分達に起きている主の御業、将来こうなると示されている事も信じる以外にはありません。それは不確かな事なのではありません。私達は主に、信仰と希望と愛を与えられているからです。その信仰は「望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させる」からです。「イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わらない」方だからです。御言葉は真実です。私達は今、この世に生きています。全ては神のみが知るのですが、私達も必ず主のみ許に召されます。或いは肉の体で生きている内にその時が来るかもしれませんが、私達が主のみ許に召された方々と顔と顔を合わせて再び会える日が必ず来ます。再会できるとは素晴らしい事です。私達の人生はこの世での死で終わらない事、昇天した方々と私達の関係は切れていない事を実感できるのです。復活し再臨する主と会えるように、先に昇天した方々とも会えます。主イエスを信じて救われ、永遠の命与えられている私達の人生の素晴らしさがここにあります。人生は人それぞれです。でも私達は永遠に父と子と聖霊の神と世で共に生きた人々と共に生きられます。感謝です。 |