| メッセージ(大谷孝志師) |
| 神の国の福音を全ての人に |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年2月26日 使徒10:34ー48 「神の国の福音を全ての人に」 牧師 大谷 孝志 |
今日は、ローマの百人隊長のコルネリウスにペテロが語った言葉を通して学びます。彼は異邦人でしたが、敬虔な人で、家族全員と共に神を恐れ、民に多くの施しをし、いつも神に祈りを捧げていたと紹介されています。 既に教会を荒らし回り、主の弟子達を殺害しようと息を弾ませていたサウロ、後のパウロに復活の主が現れ、回心した彼を異邦人を含む全ての人に福音を伝える器として神が選びました。何故かと言うと、使徒達を中心としたエルサレム教会は、神はイスラエルの神であり、割礼を受けてユダヤ人にならない異邦人は、神を敬う人として一線を引いてたからです。確かに神は、ユダヤ人を神の民として選びました。でもそれは全ての人に神の民とはこのような人達であると示す為にユダヤ人を選んだだけなのです。神はこの御旨をエルサレム教会の柱の一人として重んじられていたペテロに、異邦人のコルネリウスに語らせることを通して明らかにしたのです。それにより神が、パウロの異邦人伝道をエルサレム教会が御心と認める(ガラテヤ2:9)準備をし、彼が福音が全世界に伝えて行く道を開いたのです。 ここには、神が御子イエスを世に遣わすことによって行った全ての人の救いの為の御業が詳しく、分かり易く記されています。ユダヤ人が信じるイスラエルの神がどのような方であるか、その神の福音がどんなものなのかが、つまり福音の素晴らしさが、ペテロが異邦人のコルネリウスに説明した言葉によって、異邦人の私達にも良く分かる言葉となっているのです。 私達が信じる神がユダヤ人だけをえこひいきする方では無いから、ユダヤを遠く離れたこの日本にも多くの宣教師を遣わし、福音を宣べ伝えさせ、救いの道を開いたのです。しかし神は、無条件で人を神の国に受け入れるのではありません。どこの国の人であっても、神を恐れ、正義を行う人という条件を求めるのです。しかしその為には神がどんな方であるか、神が求める正義とは何かを知らなければなりません。ですから先ず、イスラエルの子らとして選んだユダヤ人にみ言葉を送り、イエス・キリストによって平和の福音を宣べ伝えさせて下さったのです。神はその準備としてバプテスマのヨハネを遣わし、道備えをさせました。そして神は、実に、そのひとり子であるイェスを世に与えたのです。御自身が造られた人々を徹底的に愛されていたからです。御子を信じるなら、その人は滅びることなく、永遠の命を持つことができます。約二年半主イエスはユダヤ教の巡回教師として、弟子達と共に各地を巡り歩き、神の国の福音が多くの人々に宣べ伝えました。神が人として世に生きる主イェスに、聖霊と力によって油を注ぎ、メシア・キリスト・救い主としたからです。主は悪魔に虐げられている人達を皆癒しました。その他にも五つのパンと二匹の魚で大勢の人を満腹にしたりと、数々の奇跡を行ったことが福音書に記されています。 主イエスは、およそ三十歳の時に、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言って、ガリラヤで神の国の福音を宣べ伝え、公生涯と言われる福音宣教の生活に入りました。主は近付いたと言いましたが、既に「神の国」はあります。どこにあるのでしょうか。ユダヤ人である弟子達もそれがどこにあるか分かりませんでした。自分達で勝手に、ここが神の国だとか、あの人達がいる所が神の国だと言ったり、神に受け入れられて死んだ人がいる所だと考える人達もいたようです。しかし主は、「神の国はあなたがたのただ中にあるのです(ルカ17:21)」と言いました。ですから、今私達がいる所も神の国なのです。私達には私達が集まっている所としか思えないかもしれません。教会は神の国ですと世の人々に言ってもとても信じては貰えません。讃美歌90番「ここも神の御国になれば」には世の人々に、天国はそのようなものなのかと思わせる色々な情景が描かれています。しかし私は、神の国は主イエスに触れて頂ける世界、主イエスに触れられる世界と信じています。勿論それは、霊的にではあります。 と言うのは、今日の箇所にもありますが、聖書を読んで感じるのは、登場人物と主イエスとの関係が非常に近いことです。顔を見て話をし、主に触れ、主に触れられている人々が大勢います。体で触れなくても、心で主に触れ、主にみ言葉とみ力を戴き、安心して生きられる世界がそこにはあります。それが神の国なのです。私は救われて62年、牧師になって54年になりますが、時々、そうかもしれないが、二千年前はそうだったかしれないが、復活の主は見えず、臨在も確認できないので、本当に私は神の国に生きているのだろうか、という思いが生じることがあります。聖書に書かれている事が余りに強烈なので、自分の日々の生活を振り返るとそう思わざるを得なかったからです。しかし聖書は、有りもしなかった事を書いていません。人々は主イェスと、私達と同じ人間として接しています。人々に。この主と一緒にいたいという気持ちを持たせるが主にあったからです。ですから、主は「神の国はあなたがたのただ中にある」と言ったのです。 しかし、トマスが主の復活を信じられなかったように、神の国は信仰の世界、霊的世界です。しかし彼は、主を見て信じました。彼はイェスを「私の主、私の神」と信じたのです。彼は、自分の目の前にいる主イエスを見て、今自分が神の国にいると信じる以外になかったのです。彼は信じました。主は見ないで信じる人は幸いと言います。主の臨在を信じると、神の国に生きていると実感し。神の恵みと平安を戴き、信仰と希望と愛の賜物を身に着けて、今ここにある神の国に生きられます。これは霊的事実です。私達に見ないで信じることを主が求めます。神の国に生きる喜びと素晴らしさを世の人々に伝え、人々が救われる為に必要だからです。神は私達を見ないで信じる者とする為に、聖霊と力を与えます。主に期待し、希望を持って神の国の福音を伝えましょう。その為に私達は今神の国にいます。 |