| メッセージ(大谷孝志師) |
| 一心に主を求めることが大切 |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年3月5日 マルコ 2:1ー12 「一心に主を求めることが大切」 牧師 大谷 孝志 |
主イエスがカペナウムというガリラヤ湖畔の町に来た時のことです。主イエスがいると知ると、大勢の人達がその家に集まってきました。すると一人の中風の人を乗せた寝床を担いで主がいる家にやって来ました。しかしその家には大勢の群衆が集まって来ていて、後から来た彼らは主イエスに近付くことができなかったのです。しかし彼も、彼を運んできた人達も主イエスが病気に罹っている多くの人々を癒したという話しを聞いていたでしょうし、この人自身も癒して戴きたいと願っているのを知っていたので、何とかして主イエスに近付きたい、癒して戴きたいと思ったのです。そして、主がおられる辺りの屋根を剥がし、穴を開けて中風の人が寝ている寝床を吊り降ろしたのです。その当時のこの地方の民家の屋根は、垂木や木の枝を敷き詰めた上に厚く泥を塗り、重ね多もので、比較的簡単に穴を開けることができるものだったからです。それにしても、家で静かに主イエスの話しを聴いていた人々は、突然もうもうと立ちこめた土埃に何事起きたのかと驚いたことでしょう。しかしその時、少しも騒がずに、彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ。あなたの罪は赦された」と言います。この中風の人は、ただ主イエスに近付きたい、病気を癒して戴きたいと、それだけを願って主の御許に連れて来てもらったのです。その寝床を担いできた四人もその事を願って主がいる所に来ただけです。その「彼らの信仰を見て」とあるように、主イエスは私達の信仰を見抜いて下さる方なのです。 昔、大阪の池田教会の特別伝道集会に、小野慈美先生のお父様の小野一良先生を招いてお話を聴いたことがあります。その時、先生は「ただ元の状態胎に戻りたい。イエス様なら何とかして下さる」。その気持ちだけで十分であり、イエス様は必ず解決して下さる方である」と言いました。私達は「主イエスは私の罪を贖う為に十字架に掛かって死んで下さった。そして三日目に復活し、天に上られたが、今も私と共に生きていて下さる」と信じています。しかしこの中風の人は、自分の罪の悔い改めも、主イエスはこのような方との信仰告白もしていません。また、愛の戒めを行うことも神に喜ばれるような生活もしていません。主イエスはここで、私達が信仰と呼ぶ一切の行為を、彼と四人の人々に要求していないのです。聖書は私達に神は行為を求めるのでなく、心を求める方だと教えているのです。信仰の原点に返ることが大切と教えられます。私達は聖書が知らせる主イエスの父なる神を、私達の父なる神と信じています。その神と主イエスは、ヨハネ10:30で主が「わたしと父は一つです」というように一体なのです。私達が信じる主は、万物の一切を支配し、全てを愛し、全てを慈しみ、全てを益として下さる方なのです。今日の出来事は、その主は必死に、一心にご自分を求めてくる人に善いものを与えて下さる方と教えているのです。 中風の人と四人が必死になって、辺りに構わず屋根を壊して寝床を吊り下ろせたのは、彼らが主イエスのみを見詰めていたからです。主が彼らの信仰を見て、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦された」と言ったように、私達は、彼らのように主イエスのみを見詰めていれば良いと教えられます。 しかし現実には私達は余計なものが見えすぎることが多いのです。色々な事を言ったり行う人に躓いて、教会に来なくなる人、世の人々や家族等の教会に行く自分への評価に縛られて礼拝を休む人もいます。人を見て、このままでは駄目だと諦めてしまうのです。私の最初の任地は教壇の川崎新生教会でした。伝道師として招聘されたのですが、その収入だけでは生活ができず、新聞の求人欄を見て、日曜日が完全に休みで、話を担当していた水曜夜の聖書研究祈祷会に出席できるアルバイトを懸命に捜しました。国鉄の汐留貨物駅の荷物の積み込み、資生堂のデバートの化粧品売り場への出向社員、運送会社のトラックの助手と三回仕事を変えましたが、全て条件に合い、しかも日給1800円程度が支給される仕事が与えられました。 高校の時、模擬テストを皆が受けましたが、日曜なので一切受けませんでした。でも進路指導でその事は全く問題になりませんでした。礼拝出席は決して無茶なことではなく、主をのみ見詰めていれば、何とかなることなのです。主は、その人の信仰を喜び、必要なものを与えて下さいます。 さて、主イエスはこの事を見て心の中で呟いた律法学者達に、ご自分が罪を赦す権威を持っていることを示す為に、中風の人に「起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさいと命じると、彼は癒されて、出て行きます。 私達も主が罪を赦したことより、中風を御言葉によって師やしたことに驚きを感じますが、今日の箇所は私達に、罪を癒せる方は、病をも癒せる方と教えます。私達が現実の生活の中で、心から喜んで主に仕えて生きられるように、目に見えるものを変え、必要なら癒して下さる方なのです。あなたはそれを信じるかと語り掛けている主のみを見詰め、信じましょう。 ほかの何かに気を取られて、それを見て、それに縛られるのではなく、ただ主イエスを一心に見詰め、心を込めて一途に主に求めることです。この中風の人が、彼を寝床に寝かせたまま担いで主イエスの所に来た四人の人が、何故主イエスをのみ見詰め、一途に主に求められたのでしょう。勿論、主が様々な病気に罹っている多くの人を癒したことを知っていたから、主に病を癒して欲しいと求めたからですが、誰もが主に癒して欲しいと願う体や心の傷を持っている筈です。今日の箇所はそれらについての見方を教えています。それらは持っているというより、主イエスに自分が真剣に求める機会を持つ為に、それに気付く為に与えられていることなのです。 私達はそれに気付き、体ごと喜んで主に仕えて生き、正しい道を歩ませて下さる主を一心に一途に見詰め、主イエスに全てを委ねて生きしょう。唯主のみに求めると、主はそれを与え、主の光に包まれる喜びを戴けます。 |