メッセージ(大谷孝志師)
光の子として歩もう
向島キリスト教会 礼拝説教 2025年3月9日
エペソ 5:6-20 「光の子として歩もう」 大谷孝志

  パウロは「あなたがたは以前は闇でしたが、今は主にあって光となりました。光の子どもとして歩みなさい」と言います。聖書のこの「あなたがた」を私達を指す言葉として受け取ることが大切です。私達への主の言葉として聴く時、私達は主に相応しい者へと変えられていくからです。「以前」とは、主を信じ、救われる以前です。私の場合、主に救われる前は、自分の心は闇とは思っていませんでした。しかし主イエスを信じ、救われると、自分には分からない事だらけだったと気付かされました。しかし「すべてのものは光によって、明るみに引き出され、明らかにされます」とパウロは言いますが、主を信じたからと言って、今後の事や自分や相手の心の自分の内が分かるようになったかというと、決してそうではありませんでした。皆さんもそうだと思います。私達は主イェスを信じて変わりました。確かに私達の中には光がありますが、光の子として歩み切れていない自分を感じてしまうからです。

 パウロがここで「空しい言葉でだまされてはいけません」、「彼らの仲間になってはいけません」と言うのは、この手紙の読者である異邦人キリスト者の人々が、私達と同じように変わり切れていない弱さを持っていたからです。

 カトリック系修道院のように世から隔離された世界で、主を信じる者だけの世界に生きるなら、私達も光の子として歩むことに集中できるかもしれません。しかし主は私達に「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」と言いました。パウロが言うように私達の国籍は天にあります。そして、見えない神の国に住んでいます。しかし同時に、主を信じている私達は世の人々と同じ世界に生きているのです。私達は主の証人となる為にこの世に遣わされているからです。しかし、悪魔は私達の働きを妨害しようと様々な策略を巡らし、世の人々を自分の領域に引きずり込もうとしているのです。それに対抗する為には、この世の人々の仲間に受け入れてもらえるような関係になることが必要です。関係を拒否されたら、福音を伝えられれなくなるし、取り込まれてしまったら、やはり福音を伝えられなくなります。ですから正しい距離を保ち、不従順な子らとして、神に怒りを下されないよう努めましょう。だから彼は私達に、「光の子として歩みなさい」と勧めているのです。

 しかし私達は、完全だとも、十分だとも思ってはいなくても、自分なりに努力はしているつもりです。家族や友人知人といった人々が主イエスを信じて救われて欲しい、共に神の国に永遠に生きる者になって欲しいと願うからです。勿論努力はします。でも私達は、どうしても変わりきれない弱さが残っているのです。それで、主を信じる信仰の素晴らしさを人々に伝えようと思っても、躊躇し、尻込みしてしまうことがよくあるのではないでしょうか。

 そのような私達に対し、パウロは変わりきれない自分を諦める必要はないと教えています。自分は駄目だと思わずに、自分がどのような人間でも、主イエスは私達を見放さず、私を信じなさい。私は共にいてあなたが求めるなら、必要なものを与えると語り掛けているからです。その主イェスを信じ、主の光に照られて光となっている自分を見詰め直せばよいのです。パウロは「あらゆる善意と正義と真実のうちに、光は実を結ぶのです」と言います。この「光」は主イエス・キリストの愛です。主の御心です。「今は、主にあって光となりました」と彼は言いますが、私達自身が光になったのではありません。これが3:17で「信仰によって、あなたがたの心のうちに、キリストを住まわせてくださいますように。そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、全ての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれ程の者であるかを理解する力を持つようになり、人知を遙かに超えたキリストの愛を知ることができますように」と彼が祈るように、私達の心の内に住むキリストが光源として私達を照らすので、私達は光となれるのです。

 月が夜空に輝きますが、月が光っているのではなく、月が太陽の光を反射して輝いているのと同じなのです。私達は世の光であるキリストに照らされることで、何が善意で、正義、真実かを知ることができます。私達は主に喜ばれることは何かを知り、それを行うことによって、世の光となれるのです。そして、まだ主イエスを知らずに、闇の中に生きている人々が、主イエスを信じて救われ、永遠の命を持つ人になるという実を結ぶ手助けができます。主が私達と共にいて助けるので「光の子として」歩めるからです。しかしそうは思っても、私達は弱さを持ったままです。自分の言動が空しく、実を結ばないと分かっていても、衝動的にしたい事をしてしまうことがあるからです。そんな時はどうしたらよいのでしょう。彼は「何が主に喜ばれることなのかを吟味しなさい」と言います。彼は私達に、主に喜ばれようとする意志、見極めようとする努力を求めます。しかしそう言われても、難しいと思わないで下さい。私達には聖書があるからです。聖書のみ言葉が、何が主に喜ばれるかを私達に明らかにしています。なぜなら「聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益」だからです。詩編119:105にあるように「あなたの(主の)みことばは、わたしの足のともしび、私の道の光」なので、聖書のみ言葉が私達を光の子として歩ませてくれます。

 それだけではありません。全ての人を照らすそのまことの光である(ヨハネ1:8)」キリストにより、すべてのものは光によって明るみに引き出され、明らかにされる、とパウロは言います。この方が、世の人々が「ひそかに行っている口にするのも恥ずかしい」「実を結ばない暗闇のわざ」を明らかにするのは分かりますが、「明らかにされるものはみな、光だからです」とはどういう意味でしょう。それは、善いものも悪いものもキリストに照らされるならその本質が明らかにされるという意味です。世の人々の良い所と悪い所が明らかにされるなら、私達は世の人々の言動をどう理解し、受けれたり、拒んだりしたらよいかが分かり、対処し易くなるからです。でもそれと同時に、私達の善い所だけでなく、隠しておきたい悪い所の全ても世の人々の目に明らかにされるとしたらどうでしょうか。いたたまれなくならないでしょうか。しかしそれこそが「私達が光の子として歩む為に」必要なのです。このような者でも悔い改めるなら、その罪を赦され、このように生きられるという証しが出来るからです。彼はその事を説明する為に、旧約聖書には類似の言葉が無く、当時の授浸式に用いられたと考えられている言葉を引用しています。

 「眠っている人」と「死者」は同じ者です。「起きよ」「起き上がれ」も同じ事柄を指しています。バプテスマ式において、受浸者が水の中に一旦沈みます。これは霊的に眠った状態、死者の状態であることを象徴的に表していまず。水の中から起き、起き上がることは、キリストに照らされる者となっていることを表しています。バプテスマを受けた人は、無限の可能性を持つ者に変えられているのです。主イエスを信じ、救われた者は、光の子として歩み、「世の光」となっていますが、悪魔は私達のその歩みを妨害しようとしています。

 ですから、彼は「自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。知恵のない者としてではなく、知恵のある者として、機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。ですから、愚かにならないで、主のみこころが何であるかを悟りなさい。また、ぶどう酒に酔ってはいけません。そこには放縦があるからです。むしろ、御霊に満たされなさい。詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい」と勧めます。ここにいる私達も光となっています。光となって世に生きるなら、主に喜ばれる者となり、喜びと感謝の生活を送れます。自分の歩みに細かく注意を払い、自分の欲にではなく、聖霊に満たされ、地の塩、世の光となって、光の子どもとして生きましょう。