メッセージ(大谷孝志師)
世に勝たれた主が味方
向島キリスト教会 礼拝説教 2025年3月16日
ヨハネ 16:25-33 「世に勝たれた主が味方」 大谷孝志

  受難節に入っています。先々週の週報にも書きましたが、受難節の中の聖日は主の復活を感謝する聖日なので除きます。しかし同時に、主の十字架への道を心に刻む大切な日々でもあります。ですから聖日毎に、十字架の死を前にした主のみ言葉を学んでいます。次週はヨハネ17:20-26を通して「神の御名を知る私達」を学び、第5週は讃美と証しの礼拝で、私の説教は休みになります。4月第一週はルカ22:31-45を通して「私達の弱さを知る主」を学びます。この受難節の時、主の十字架の贖いによって罪を赦され、神の子供達の一人とされ、神の国に主と共に生きている私達の幸いを共に学びましょう。

 今日の個所の最後のみ言葉「世にあっては苦難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました」は、この世に生きる私達に、勇気と希望を与える力強い主の有名なみ言葉です。何故主は「勇気を出しなさい」と言ったのでしょう。主イエスを信じて救われた私達は、肉体をもって世に生きる限り、時として肉体的、精神的に様々な弱さを感じ、不安や恐れに囚われます。しかし主が共にいるので、喜びと感謝に満ち溢れられます。しかし主はその私達に「世にあっては苦難があります」と言います。この世に生きていて福音を知らず、主イエスが救い主と知らない人々は、霊的闇の世界の中で、真の神を知らず、様々な偶像に頼り、自分の知恵と力、この世の常識の中で生きているので、主イエスを信じることが全てに優先させ、それを第一にしようとする私達キリスト者の生き方を理解できないからです。

 そのような外からの力の苦しみに遭うだけでなく、内側からの苦しみもあります。それは、主イエスを信じ、救われ、信仰と希望と愛を与えられて霊的光の世界に生きていても、確かなものは自分の知恵と力でしかないと思い込んでしまい、この世の知恵と知識では判別できない、先の事、相手の心の内のこと等に不安や恐れに囚われ、動揺し、霊的闇の世界にうごめいてしまう弱さ持つ人間なのです。主はご自分の弟子達も今の私達と同じような弱さを持つと知っているので、「世にあっては苦難があります」と言ったのです。

 さて、主が「わたしは父のもとから出て、再び世を去って、父のもとに行きます。」と言うと、弟子達は「本当に、今あなたははっきりとお話しくださり、何もたとえでは語られません。あなたがすべてをご存じであり、だれかがあなたにお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。ですから私たちは、あなたが神から来られたことを信じます。」と言います。彼らは主が自分達に語った言葉が分かったと思ったから、「あなたが神から来られたことを信じます」と言います。分かったつもりだから、信じますと言えたのです。

 私達も「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」とのみ言葉が分かったと思っています。そして、主イエスがキリスト、神の子、救い主と信じています。でも、その一つ一つの言葉が、自分にとってどんなに重いものか、主イエスがこのような方である為に、何をしたか。そう信じる者として、自分が、そして家族がどう生きなければならないのかが分かった上でこう言っているのだと自分を吟味しているでしょうか。

 初代教会のローマ帝国による迫害の最中にあったキリスト者が、イエス、キリスト、神、の子、救い主の頭文字が小魚を意味するイクトウースだったので、それを合い言葉に使っていました。主イエスがそのような方と信じている者だと確認し合うことが、彼らにはを命懸ける程大切なことだったのです。

 しかし、人としての主イエスを目の前に見ている弟子達は、主が、父のもとから出て、世に来て、(父の元を去って出て世に来たように)再び世を去って、父の元に行くことが、どんな事を意味するのかを分かっていなかったのです。

 ですから主は「見なさい。その時が来ます。いや、すでに来ています」と言います。日本語としてはおかしいと思いますが、主は、彼らが口では信じますと言いながら、自分達は信じていなかったと分かる時が来ます。何故なら、既に信じていないからで、人々が主を捕らえに来ると、彼らは主を見捨てて逃げ去あら言ったのです。事実、彼らはその通りにしてしまいました。

 「しかし」と主は言います。私達にとっても、この「しかし」が大切です。私達がこうだと思っている事と、神が為さっている事、御心は違うからです。この後、主が捕らえられた時、弟子達は主を見捨てて逃げてしまいました。彼らは、自分達は主一人を見捨てて逃げてしまった。主を一人残してしまった。何て弱く、情け無いと自分を責めたことでしょう。しかし、彼らがそう思ったとしても、主は一人ではなかったのです。彼らには見えないし、とても考えられなくても、万物の創造者、支配者である父なる神がその時、御子イエスと共にいたのです。ここに、聖書が記し、教える信仰の世界が見事に描き出されています。私達が、主イエスを信じて救われ、永遠の命を持っているということは、こういう世界、信仰の世界、霊的世界に生きているということなのです。私達にも、父なる神も、主イエスも見えません。声を聞くこともできません。しかし私達は今、14:16で主が「わたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えになります。その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです」と約束したこの信仰の世界に生きているのです。この事を知れば、「わたしはすでに世に勝ちました」と主が言う世界に生きていること、その事の深い意味を私達は感じ取れます。

 さて、弟子達の筆頭であるペテロが「主よ。あなたとご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております(ルカ22:33)」と言った時、他の弟子達も自分達も同じですと主に目で訴えたでしょう。残念ながら、私達人間の将来の自分に対する思いとはこんなものなのです。それで、相手に良く思われたい、自分が出来ると思う良い事ができる自分だと相手に認めて貰いたいと思い、それが口から出てしまうのです。しかし、彼らの目の前にいる主イエスは、信仰の世界、霊的世界に生きています。ですから「わたしはあなたのために、あなたの信仰が無くならないように祈りました。ですから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言ったのです。

 私達は彼にそう言った主イエスを信じ、その主が守り、主に育てられていると信じれば良いのです。その信仰の世界、霊的世界に生きているからです。聖霊降臨後の使徒達の言動を思い出して下さい。彼らは捕らえられ、馬鹿にされ、厳しく尋問されました。鞭で打たれイエスの名によって語ってはならないと命じられました。でも、彼らは御名の為に辱められるに値する者とされたことを喜び、毎日、宮や家々でイエスがキリストであることを教え、宣べ伝えることを止めなかった(使徒5:40-42)」のです。 彼らは苦難に遭いました。しかし勇気を出しました。何故でしょう。それは主が言ったように、主が既に世に勝っていると知っているからです。彼らは主を見捨てました。しかし主は、彼らを捨てて孤児にしなかったのです。彼らの内にいる御霊が、共にいる主イエスを見る力を与え、主が霊の体で生き、彼らを新しい人として生きる者としたからです。これこそが主を信じて生きる私達がいる信仰の世界、霊的世界です。主が十字架に掛かって死に、三日目に復活して私達と共に生きています。信じましょう。主の平安を戴けます。苦難の中に置かれても、勇気を出せます。世に勝てます。主が既に世に勝っているからです。