| メッセージ(大谷孝志師) |
| 主の求めに応える人生 |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年3月19日 ルカ 6:17-36 「主の求めに応える人生」 牧師 大谷 孝志 |
今日の箇所は、マタイの福音書の山上の説教に似ています。でも主イエスが山に行き、夜を徹して神に祈った後、弟子達を呼び寄せ、十二使徒を選んだ後に、山を降りて平地で人々に話した内容がここに書かれています。 マタイと同じで、主の言葉は、当時でもかなり刺激的だったと思います。主イエスが徹底的に相手に与える者になりなさいと命じているからです。この世で生活している私達は、当然この主の命令を守れない自分に直面させられることが多いのではないでしょうか。例えば、大阪や広島の教会にいた時、生活に困って物やお金を求めて来る人がいました。主は「求める者には、だれにでも与えなさい」と言いますが、彼らの必要なもの全てに応えられませんでした。人が必要とするそれらのものを無制限に与えるとしたら、自分のものは何も残らない所まで行く可能性すらあったからです。 主イエスは27節で「あなたがたの敵を愛しなさい。あなたがたを憎む者たちに善を行いなさい。あなたがたを呪う者たちを祝福しなさい。あなたがたを侮辱する者たちのために祈りなさい」と言いました。私達は「ハイ」と言えるでしょうか。愛そうと思っても愛せないから敵なのです。自分を憎み、無視し、自分勝手な要求を押し付けてくる人を、憎らしいとは思っても、相手が望む事をして上げたいとは思えません。しかし、主は徹底的に相手を愛し、善を行い、祝福し、その人達の為に祈りなさいと言います。 主イエスは、私達に無理難題を押し付けようとしているのではありません。主が共にいる所、そこが神の国なのです、使徒2:43ー47のような生活が出来、人が互いに愛し、支え合い、真に幸せに生きるようになる為には、主が命じているように相手の求めに誠実に応えることが必要だからです。 人が自分を捨てるのが難しいから、社会の中に様々な戦いが生じています。今日のみ言葉を読んでも、素直に頷けず「主よ、私には出来ません」と呟いてしまう私達です。しかし、主が「御名を崇めさせ給え」、「御国を来たらせ給え」、「御心の天になるごとく、地にもなさせ給え」と祈るよう教えたのは、自分を捨てきれない私達なので、この祈りが必要だからです。 神の国が私達のただ中にあっても、当時のパリサイ人達のように、それを実感できなければ人は幸せになれません。主は、ご自分が救い主と未だ知らない人々が、この世界が神の国と実感できることを願っています。その為には私達が、徹底的に相手を受け入れ、その要求に応える者になるよう求めているのです。十字架に掛かって死んで復活した主イエスが今生きていると人々が知る為は、私達のこの生き方による証しが必要だからです。主は私達に、普通の人間のレベルからの脱却を求めているのです。しかし、そうしたいとは思っても、主の求めに応えるのは実際には大変です。普通の事を普通にしていては、到底、主のこの求めには応えられないからです。 ですから主は、私達の視点を変えさせる為に、「自分を愛してくれる者たちを愛したとしても」、「自分に良いことをしてくれる者たちに良いことをしたとしても」、「返してもらうつもりで人に貸したとしても」、「あなたがたにどんな恵みがあるでしょうか」と言い、そして「罪人たちでも、同じだけ返してもらうつもりで、罪人たちに貸しています」と言います。主がこう言うのは、人は救われる前の古い自分とは違った新しい自分になることで、自分が生きる古い世界が自分にとって新しい世界になるからです。悲しんでいる人が喜び、苦しんでいる人が楽しそうに笑えるようになり、皆が安心して共に生きられ、互いに助け合い、支え合って生きられる世界になるよう主が求めています。しかしそうと知ってはいても、自分が実現して行くには、かなりの努力、犠牲が必要です。今迄の自分であれば考えられないような事をしなければならず、かなりのエネルギーが必要になります。私達が自分の力や踏ん張りで実行しようと思っても、到底無理です。その為には、私達が、過去の自分の生き方と決別することが必要になります。 主イエスは私達に、自分を捨て、自分の十字架を負って主に追従することを求めるのです。主は今日の箇所で具体的事柄を示すことによって、「私のこの求めに応えられるか」と私達に追従を迫っていると言えます。私は主を信じてからですが、頬を叩かれた時、反対側の頬を向けたことがあります。これはかなり簡単で、相手は驚いて手を引っ込めました。しかし「求める者には、誰にでも与えなさい」「あなたのものを奪い取る者から、取り戻してはいけません」にはかなりの困難が伴いました。自分の生活が懸かってくるからです。しかし、主は私達にその実行を求めます。それは何故でしょう。私達が十字架と復活の主によって新しい人に造り変えられているからです。イエスが主として私達が生きる世界を支配しているからです。 私達に注がれた父なる神と主イエス・キリストの愛と憐れみを思いましょう。主が私達に求めている事の真の意味を悟れるからです。主はこの世界が神の国となることを望んでいます。その主の御心は、私達の働きによって実現されるのです。ですから主は、私達に追従を求めます。私達は皆、他の人の働き掛けによって主イエスを救い主と信じたのです。主イエスの十字架の死によって、自分が神の子とされ、復活した主イエスに愛され、支えられ、導かれて、今この世に生きていると、先輩のキリスト者達との交わりの中で知らされ、教会に連なる者としてこの世に生きているのです。 主は今、私達の働きを必要としています。主がどんな方か、私達の証しによって、世の人々に伝えられていくからです。私達が伝えなければ人々は救われません。私達が世の人々と同じような事をしていたら、主イエスを信じる信仰の喜びが世の人々に伝わりりません。まず私達が、自分に注がれた主の深い憐れみに深く感謝し、私達の助けを必要として来た人達に、憐れみ深い者となって、主の求めに大胆に応えて生きる者となりましょう。 |