メッセージ(大谷孝志師)
神に一つとされている私達
向島キリスト教会 礼拝説教 2025年3月23日
ヨハネ 17:20-26 「神に一つとされている私達」 大谷孝志

  5日から主の復活を感謝する聖日を除き、主の十字架の贖いの死の苦しみを覚えて、主イエスと御子である主を十字架の死に渡す為に世に与えられた私達の天の父である神御自身の痛みを心に刻みつつ過ごす40日間の受難節に入っています。主イエスは「ただこの人々のためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。」と言います。彼らとは、主の証人となって全世界に福音を宣べ伝える人々であり、彼らの宣教によって主イエスを信じ救われる人々とは、自分達の教会に主の証人として遣わされた人達の宣教によって救われた人々、ここにいる私達、今日は来られなかったがこの教会に連なっている一人一人です。更には、これから私達が主の証人となって福音を伝えることによって主を信じる者となる私達の家族、友人知人の全てです。主イエスは今から約二千年前、十字架に掛かって死なれる前に、既にここにいる私達の為に祈っていたのです。本当に感謝です。

 今日の個所で、主は父に「あなたが私の内におられ、わたしがあなたのうちにいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしのうちにいるようにしてください。」と言います。それは何の為かと言うと「あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるようになるためです。」 と言います。この御子イエスの祈りに応えた父なる神が、多くの様々な点で違う私達を完全に一つにしているからこそ、私達は地の塩、世の光となって、世に主の福音を携えて出て行き、主の証人として世の人々に福音を伝えているのです。

私達は、自分達の主イエス・キリストを信じて生きる信仰生活を通して、主イエスを信じるなら、このような生き方ができると世の人々に伝えます。主は「あなたがたの天の父が完全であるように、完全でありなさい」と言いました。しかし私達は、神が完全であるように完全になどなれる訳がありません。第一、神が完全であると言われても、神がどのように完全なのかまるで分かりません。全く別の次元、別の世界にいるからです。ですから、聖書には漠然と「~のよう」と表現するだけで、具体的姿は書かれていません。この言葉はマタイ5:48の「山上の説教」と中の言葉です。そこに書かれている戒めは、とても守り切れないと思うしかないものばかりです。しかし主がここで完全でありなさいと言うのは、世の人とは全く別の価値観、世界観、人間観で生きなさいという意味です。これを別の言葉で言えば、「主に従う」ということです。そして主は、群衆を弟子達と一緒に呼び寄せて「だれでもわたしに従って来たければ、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」と言いました。世の人とは全く別な生き方です。こう生きることが、天の父が完全であるように、完全である」ことと知りましょう。

 ですから、この世的品行不正、完全無欠であることを主は求めるのではありません。主は私達に、自分を捨てることを求めます。しかし主はペテロの弱さを知っていたように、私達が「主イエスを信じます。主に従います」と言いながら、捨て切れない弱さを内に持っているのを知っています。ですから、その自分を自分の十字架として負って、その自分のままで良いから、私に従って来なさいと言ったのです。それが完全であると言うことなのです。

 主イエスは神のことばで、ひとり子として神と共にいる方でありながら、人となってこの世に来ました。ですから、逆説的言い方ですが、主イエスは

百%神でありながら百%人間なのです。ですから「あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいる」と言ったのです。主は神に祈り求めます。それは主イエスが百%人間だからです。そして祈り終えると弟子達に配らせ、大群衆がそれを食べて満腹しました。主は100%神であるからです。

そして主は、わたしと父が一つであるように「すべての人を一つにしてください」と言います。そしてその結果が、来年度の同盟の主題聖句「一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶ」(Ⅰコリント12:26)ことなのです。また主が第二の戒めとして教えた「あなたの隣人を自分のように愛しなさい」も、全ての人が一つになることによってできることです。誰が自分の隣人で、誰が自分の隣人ではないと自分で決めてはいけないのです。誰でも自分の隣に来た人を自分の隣人として受け入れ、自分のように愛しなさいと主は言い、神を愛すると同じように隣人を愛することが重要ですと律法の専門家に教えました。

 主イエスを愛する、隣人を愛することは、口で言うのは簡単ですが、実行することはとても深く重いものがあるので、とても難しいです。しかし主は、それが私達に可能だし、私達がそうすることが、まだ主イエスがどんな方かを知らない世の人々にとって必要なので、できると教えます。ですから、「彼ら(私達)もわたしのうちにいるようにしてください」と父にお願いします。

 パウロはⅠコリント3:16で「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられるのを知らないのですか」と言います。私達はこの聖句をよく知っています。しかし、これを御言葉として聞いても、右の耳から入っても心に留まらず、左の耳から抜け出てしまったら、何の意味もなくなってしまいます。コリントの教会の人達にそのような印象を受けたから、彼は「知らないのですか」と厳しい調子で問い掛けたのだと思います。彼らに限らず、私達も彼の言葉に心の痛みを感じさせられないでしょうか。

 主イエスが何故こう言ったのかというと、主の弟子である者が、自分が神の宮で、神の御霊が自分の内に住んでいると自覚する事、そのような人として世に生きる事が、世の人々が万物の創造者、全知全能の唯一の真の神が、イエス・キリストを全ての人の救い主として世に遣わしたことを信じるようになる為に必要だからです。主イエスが復活して50日後のペンテコステの日に使徒達は聖霊に満たされ、主の証人として力強く世の人々にこの事実を伝え、その日だけで三千人程の人が主イエスを信じて救われました。神の御霊が彼らの内にいて、主イエスこそが彼らの神が遣わした方と信じたからです。

 先週、私達は光の子として、つまり、主イエス・キリストの栄光を映す世の光として歩んでいると話ました。父なる神が御子イエスに与えた栄光を、私達も与えられているからです。ここで主を礼拝している私達が、互いに見つめ合っても、相手が輝いているとは思えません。光は霊的光だからです。しかし世の人とは違う何かを感じられていると思います。主が光として自分の内にいる光の子同士となっているからです。私達が主イエスを信じ救われ、喜んでこの教会で共に礼拝しているのは、キリストの体である教会という体の部分同士とされているからです。互いに別人格を持つ他人同士です。しかし主が、体の中に分裂がなく、各部分が互いの為に、同じように配慮するよう、私達に神の恵みと平安という栄光を与え、私達が完全に一つとなるように助けているのです。特別な善い事はできないかもしれません。でも、目に見えない神がいて、私達がこの世の繋がりとは違う神の愛で結び合わされていると知ってもらえたら最高です。その為には先ず、お互いが神に愛されているから、この教会に招き入れられていると認め合いましょう。神の愛を身に着けましょう。コロサイ3:14にあるように「愛は結びの帯として完全」だからです。神の愛、キリストの愛を身に着けている私達を、御霊がその私達一人一人の内にいて、一つの群れにしているのです。私達は、主が十字架に掛かって死ぬ程に愛されている者同士と認め合いましょう。その主の愛によって一つとされている私達と自覚し、その信仰に立って歩み続けましょう。