| メッセージ(大谷孝志師) |
| 世にいる私達に出来る事 |
| 向島キリスト教会 祈祷会説教 2025年3月26日 マタイ 5:11-20 「世にいる私達に出来る事」 牧師 大谷 孝志 |
主イエスは「あなたがたは地の塩です」「あなたがたは世の光です」と言います。この「あなたがた」は原文では非常に強調されています。ギリシア語では、ドイツ語でもそうなのですが、人称代名詞を使いません。人称や時制を全て語尾の変化で表すからです。例えば「動く」、「動いた」と言えば「わたしは」で、「動くは」「動いたは」と言えば「あなたは」で「動いたね」「動いたわね」と言ったら「彼は」「彼女は」「それは」と決めてあるようなものなのです。また複数形の場合は「よ」を付けて「地の塩ですわよ」と言えば二人称複数と決まっているので、、「あなたがたは」と分かるようになっているのです。それなのに聖書は「ヒュウメイス(あなたがたは)」という二人称複数の代名詞を13,14節共に文頭に置いて「あなたがた」を強調します。それにより、弟子達が神によって「地の塩、世の光」としての役割を与えられてることを、非常に大切なこととして強調しているのです。 この山上の説教は7:28に「群衆はその教えに驚いた」あるので、「あなたがた」は、御許に来た弟子達だけでなく、イエスに従う大勢の群衆を含んでいると考えられています。ですから、イエスを信じ、聖書を神からの手紙として読む私達を含む全てのキリスト者がこの「あなたがた」なのです。 地の塩と言っても、地上で取れる塩の意味ではありません。世の光も同じです。主イエスを信じ、従う全ての人は、この世の全ての人の為の塩であり、世の全ての人の為の光であると、主イエスが宣言しているのです。では私達が地の塩であるとはどういうことでしょうか。地の塩と言われて格好いいとか、素敵だとか思うでしょうか。世の光と言われると何となく格好いい、人の役に立つことができのだと良い気持ちになるでしょう。塩と言われて、それほど感動が湧かないのが正直なところでしょう、しかし、私達は主にはっきりと「あなたがは地の塩です」と宣言されているのです。塩の役目は何かというと、大きな役目の一つは、食物の中に染み込んでいって、食物を腐敗から守ることです。また人は、身体の中に塩を取り込まないでいると死んでしまいます。クリスチャンである私達がこの世に生きているだけで、この世の人々が腐敗から守られ、神が全てを支配する世界に存在を許され、滅ぼされないでいるのは、私達が「地の塩」だからです。言い換えれば、私達は世の人々を守る壁、祝福の源になっているからです。私達が世に生きているのは、自分や家族の為だけでなく、世の全ての人々の為でもあると知り、広い心で自分を周囲の人々を見る者になりましょう。 では、私達がこの役目を果たさなかったら、どうなるのでしょう。主は、「もし塩が塩気をなくしたら、何によって塩気をつけるのでしょうか。もう何の役にも立たず、、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」と言います。置いていた塩が腐り、塩気をなくした経験があるでしょうか。 塩は放置しても塩気を失わず、変わらないものという印象が強いです。それなのに主は何故「塩が塩気をなくしたら」と言ったのでしょう。一つには、当時はそういう塩が有ったということです。不純物の多い塩の場合、湿気により塩分が失われて役に立たなくなってしまい、捨てられることがよく見られたそうです。外見は塩に見えても、塩としての役目を果たせなければ、存在意義はないに等しいからです。私達が教会に来たのは、主イエスを信じて救われたいと思ったからです。教会を知る前はそんな事は思ってもみなかったのです。でもそう思えたのは、主イエスを信じて世に生きる人に触れたからです。悩みを聞いていくれたり、はっとさせられる言葉や態度に触れて、今のままではだめなので、自分も主イエスを信じて生きたいと思ったからです。その人が私に塩となってくれたからです。でも、その人は私が救われたら良いとは思ったでしょう。でも救われるようにと躍起になって関わって来たのではないと思います。ただ、主を信じて救われた者として生きていただけだと思います。主は「あなたがたは地の塩になりなさい」と言ったのではなく「あなたがたは地の塩です」と言ったのです。主イエスを信じ救われた者として喜んで、安心してこの世に生きている、その私達が「地の塩」なのです。主は私達が塩気をなくしたら、何の役にも立たず、神に捨てられ、世の人からゴミ扱いされると言います。厳しいと思うでしょうが、主にとって世の人の救いがそれ程重く、キリスト者として生きる私達への主の期待と私達の役割はそれ程大きいのです。 同じように、私達は世の光でもあると主は言います、主はこうする人が、こんな資格を持つ人が世の光になれるのですと言ったのではありません。主を信じている私達が世の光なのです。主が「山の上にある町は隠れることができません」と言う通りなのです。私達は主を信じると、山の上にある町と同じ立場に置かれるのです。私達は全ての人の目につき、全ての人を闇の中で生きる人生から、光の中を歩む人生に変える力を持っているのです。ですから主は「あなたがたは世の光です」と自分に従って来た人達に言ったのです。そして主はその私達に升の下に置いて見えないようにせず、むしろ私達を世の人々の前に押し出して、私達の光を見えるようにします。福音を信仰の喜びを伝える機会を与えるのです。これを「強いられた恵み」と呼びます。初代教会は大きく強い群れではありませんでした。11節にあるように罵られ、迫害され、ありもしない悪口を浴びせられ、それに耐えていました。人々にとって「あなたがたは地の塩、世の光です」のみ言葉は大きな励ましになり、この世に力強く生きる力を与えました。共にいる主が彼らに、「世の人々が救われ、信仰と希望と愛をもって、神の子供、新しい人として世に生きる為には無くてはならない存在です」と教えました。私達も無力さに尻込みしたくなる時があります。しかし、私達がいる所、そこには全ての人の為の救いの門が開かれていると知りましょう。 |